【NYでの下積み時代】パンク女王 パティ・スミスの生い立ちをキーワードで解説 Part-2

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パンク女王 パティ・スミスの生い立ちをキーワードで解説 Part-1 【パティの少女時代】」という記事では、

 少女時代のパティを知るキーワード 

  • 6歳の時に出会ったロックンロール
  • 猩紅熱(しょうこうねつ)による幻覚
  • 美術教師に教えてもらったモディリアーニの絵画
  • ロックアイドル、ローリング・ストーンズとボブ・ディラン
  • ディランに似ているから買ったアルチュール・ランボーの詩集

と、上記のキーワードをもとに、僕の大好きなミュージシャンのパティ・スミス。

彼女の【少女時代】について書きました。

 

読んでない方は、こちらの記事もぜひ読んでみて下さい。

 

 

今回はその続き、1967年(20歳)にパティがNYに来てから、1975年(29歳)でデビューするまでの【パティのNYでの下積み時代】について書きました。

 

NY時代、そしてデビューまで

NYでの様々な人物からの刺激

1967年、うば車工場での仕事に嫌気が差したパティは単身NYにやって来ました。

 

彼女がNYに来てから、デビューするまでの9年の間には様々な人との出会いが起こります。

 

彼女が出会った人達を年代順に並べてみると、こんな感じ。

  • 1967年 ●ロバート・メイプルソープ
  • 1970年 ●ボブ・ニューワース ●ジム・キャロル ●サム・シェパード ●ジャニス・ジョップリンレ二ー・ケイアラン・レイニア
  • 1973年 ●トム・ヴァーライン
  • 1974年 ●リチャード・ソウル ●アイヴァン・クラール
  • 1975年 ●ジェイ・ディー・ドゥーティー ●クライブ・デイヴィス ●ボブ・ディラン

パティがNYで出会い、影響を受けた人物のほとんどは男性です。

 

彼女は彼らから「芸術的感性」「ロックへの考え方」「詩作に対する姿勢」など、“自身の創作において重要な刺激” を受けます。

 

パティがNYで出会った人々の中で、最も重要な出会いの一つがロバート・メイプルソープとの出会いでしょう。

 

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彼との出会いは、ある偶然から始まります・・・。

 

ロバート・メイプルソープとの偶然の運命の出会い

NYに来たパティは最初に、ニュージャージー時代の知り合いのアパートを訪ねます。

しかしアパートのドアを開けたのは、彼女の知り合いではありませんでした。

 

そのドアを開けた人物こそが、若き日のロバート・メイプルソープ(以下メイプルソープ)だったのです。

 

 ロバート・メイプルソープとは?

Robert Mapplethorpe(ロバート・メイプルソープ) 1946年11月4日‐1989年3月9日

1946年にニューヨーク州ロングアイランドに生まれる。高校卒業後、両親の薦めから、大学にてコマーシャル・アートを学ぶ。パティと出会ったのは大学在学中。大学中退後、写真家として活動を始める。自身のポートレート写真や花の写真が有名。

 

パティはアパートに知り合いがいなかったので、その場から立ち去りました。

それからの数日間は、駅や家々の戸口で野宿をして過ごします。そんな中、彼女は本屋での仕事を見つけました。

 

しかしいまだに住む場所を見つけてはいません。

パティが住む場所を探している時に、彼女とメイプルソープはグリニッジ・ヴィレッジで偶然にも再会しました。

 
二人は共に20歳だったこともあり、意気投合。メイプルソープは、彼女に「自分の家で一緒に暮らさないか?」と誘います。

 

メイプルソープは今では同性愛者だと有名ですが、この頃の彼には同性愛の傾向はありませんでした。

共に暮らし始めた二人は、アートなどの文化について熱心に語り合うように。パティとメイプルソープの友情は、彼がエイズでなくなる1989年まで続きます。

 

この頃のパティは、子供の時の猩紅熱による幻覚に悩んでいました。それに気づいたメイプルソープはあるアドバイスを送ります。

 

「その幻覚の記憶を自身のクリエイションに利用するように」と。

 

また彼はパティに「パティ、僕らみたいに世界を見る奴なんて、誰もいないんだよ」とよく言っていたそうです。この頃から彼女はペンシル画を描くようになりました。

 

1967年11月、パティとメイプルソープはブルックリンのアパートから、ハル・ストリートのアパートへと移り住みます。

しかし二人の関係は長くは続かず、パティとメイプルソープは一旦別れることに。

 

そしてパティは別の男性と付き合いはじめます。彼女はその男性と暮らし始めますが、すぐにその男性とも別れました。

 

パティは1969年4月からは、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで一人暮らしを始めます。そのアパートでは、デッサンと油絵を描く日々。

 

同時期にパティは、メイプルソープが同性愛者であることを知りました。そのためか創作活動に対しては、以前ほどの熱量を持つことができなかったようです。

 

1969年5月にパティは妹のリンダと共にパリへ行きました。二人はサーカスの一座と知り合い、その一座では、通行人から小銭を集める役をつとめます。

 

パリから戻ってきたパティはNYに戻り、メイプルソープの下へ。二人の友情は急速に回復しました。

 

 

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そしてパティとメイプルソープは、チェルシー・ホテルに移り住みます・・・。

 

 

チェルシー・ホテル時代

チェルシー・ホテルとは?

Chelsea Hotel (チェルシー・ホテル) – 1884年~現在

アンディ・ウォーホルやボブ・ディラン、ジャニス・ジョップリンなどの著名人が出入りしていた伝説的なホテル。
アーサー・C・クラークが小説『2001年宇宙の旅』を書いたホテルとしても有名。
1978年にはシド・ヴィシャスとガールフレンドのナンシー・スパンゲンがこのホテルで刺殺されているのが発見される。

 

パティはチェルシー・ホテルで、自身がアーティストになる夢の実現に向けて行動を始めます。

彼女は詩とペンシル画をノートいっぱいに書き溜めて、それをいつも持ち歩くようになりました。

 

また、この頃のパティはローリング・ストーンズの曲に合わせて詩を書いていたようです。

この行為は、彼女が後に「ロックン・ランボー」と名付けて発表する、ポエトリー・リーディングの原型だったのでしょう。

 

ボブ・ディランのマネージャー、ボブ・ニューワース

パティはチェルシー・ホテルのロビーを歩いているときに、ボブ・ニューワースに話しかけられます。

ボブ・ニューワースは、ボブ・ディランのマネージャーとしても有名な人物。またジャニス・ジョップリンの〈メルセデス・ベンツ〉の作者でもあります。

 

彼はパティに「その歩き方はどこで覚えたの?」と聴きます。パティは答えました「『ドント・ルック・バック』のボブ・ディランの歩き方を真似した」と。

 

ニューワースはその時、パティ持っていたノートに興味を持ち、読ませてほしいと頼みます。

 

彼女の詩やペンシル画が描き溜められたノートを見て、ニューワースはパティの特別な才能を見出しました。

そして彼はパティに、ジャニス・ジョップリンや小説家のウィリアム S バロウズなどの、チェルシー・ホテルの住人達を紹介するようになります。

 

1970年始め、パティはメイプルソープと共にチェルシー・ホテルを出て、二人でスタジオを借りました。

 

パティがチェルシー・ホテル時代に知り合った人物で、詩作において強い影響を受けた二人の人物がいます。

それは

・劇作家のサム・シェパード

・若き天才新人のジム・キャロル

です。

今回は記事の構成上、この二人についての言及は割愛させていただきました。

 

アラン・レイニアとトム・ヴァーラインからの刺激

この時期にパティは、ある二人の男性ミュージシャンと恋人関係になります。そして彼らから音楽の創作での刺激を受けました。

 

その二人のミュージシャンとは、ブルー・オイスター・カルトのアラン・レイニアとテレビジョンのトム・ヴァーラインです。

 

ブルー・オイスター・カルトのアラン・レイニア

アラン・レイニアは、ブルー・オイスター・カルトのキーボード奏者。彼はパティに歌の指導をした人物です。

アラン・レイニアはパティとメイプルソープの家に引っ越してきます。その後パティとレイニアは、小さなアパートを借りて同棲生活送ります。

 

テレビジョンのトム・ヴァーレイン

アラン・レイニアの次に彼女が同棲したのは、テレビジョンのヴォーカル&ギターのトム・ヴァーレインでした。

 

パティはトム・ヴァーラインについて、こう書いています。

「テレビジョン」と題する文章にこう書いている。

“リード・シンガーのトム・ヴァーレインはロックン・ロール界で一番美しい首の持ち主だ…あんたの処女を捧げるに価する男だ”

引用:「レコード・コレクターズ‐特集パティ・スミス」1996年 8月号 p34 

パティとトムの恋人関係は長くは続きません。しかし恋人ではなくなった後も二人は数々の共作を生み出します。

 

パティ・スミス・グループの原型

音楽評論家レニー・ケイとの出会い

少し話は戻りますが、チェルシー・ホテル時代にパティが出会った、もう一人の重要な人物がいます。

 

その人物とは、レニー・ケイ。彼は後にパティ・スミス・グループのギタリストになる男。

 

レニーはもともと『クリーム』誌などの音楽雑誌に、批評文が掲載されていたロック評論家。またパートタイムでレコード店の店員もしていました。

 

二人が知り合ったのは、レニーが働いていたレコード店です。パティは彼が働いている店に行った時に、店にかかっていたジャズに合わせて躍りました。

それを見たレニーも釣られて躍り、それがキッカケで二人は仲良くなります。

 

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すごくロックな出会いですね。

 

それからパティは毎週土曜日に、レニーの店に行くようになります。

 

レニー・ケイはエレキ・ギターが弾けたので、パティに誘われました。

レニーは「ロックン・ランボー」で、パティのポエトリー・リーディングに合わせてバックでギターを弾きます。

 

リチャード・ソウルの加入

ポエトリー・リーディングを公演していた二人は、ピアノ・プレーヤー募集の広告を出します。その広告を見てやってきたのが、リチャード・ソウルです

パティとレニーに、ピアノのリチャード・ソウルが加わりました。

 

これでパティ・スミス・グループの原型が完成しました。

 

自主制作レコード〈Hey Joe /Piss Factory〉

パティ、レニー、ソウルの3人が揃ったことで、バンドはレコードを作りたいと考えました。

しかし彼らには、レコードを録音するためのお金はありませんでした。

 

なので、

  1. メイプルソープの資金、1000ドル
  2. ワートーク・パブリシティ商会の資金
  3. レニー・ケイのポケットマネー

の3つを足してレコードを作ります。

 

そうして出来上がったのが、シングルレコード〈Hey Joe /Piss Factory〉です。

 

 
 

このシングル・レコードは、NYにあるエレクトリック・レディランド・スタジオで録音されました。このスタジオは1970年にジミ・ヘンドリックスが建てたスタジオです。

パティ達は録音したシングル・レコードを、ジミヘンに捧げる意味も込めて、このスタジオを選びました。

 

シングルA面の〈Hey Joeでは、元恋人のトム・ヴァーラインがリード・ギターとして参加しています。この曲の原曲は、ジミヘンの名曲です。

 

しかしA面の〈Hey Joe〉よりも、語るべきはB面に収録された〈Piss Factory〉でしょう。この曲はパティの十代の頃の工場勤務を描いた曲です。

 

〈Piss Factory〉はパティの声、レニーのギター、ソウルのピアノのみで構成されています。

 

ベースもドラムもいない曲ですが、当時のロック通の間では話題となりました。

 

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〈Piss Factory〉は僕も大好きな曲です。

一時期狂ったようにリピートして聴いていました。

 

ライブ・パフォーマンスを通して

テレビジョンのライブの前座

1974年8月の終わりには、パティとレニー、ソウルの三人でテレビジョンの前座として、マクシス・カンザス・シティに出演します。

 

そのタイミングで彼女たちのレコードも発売されました。

 

この時期にバンドは一時的に、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファンをドラムとして雇いました。

 

ドラムを加えたことで、レニーのギターだけでは、バンド全体の音を支えきれなります。なのでパティ達は、ギターをもう一人加えることにました。

 

ギターのアイヴァン・クラール

75年の春にはチェコスロヴァキア出身のギタリスト、アイヴァン・クラールが加入します。

 

彼は元々エンジェル・アンド・ザ・スネーク(ブロンディの前身バンド)にいましたが、パティのバンドの方が音楽的に成功しそうと考え、バンドに入りました。

 

アイヴァン・クラールが加わって最初の演奏は、フィラデルフィアのメイン・ポイントでした。それはエリック・バートンのショウの前座でした。

 

ドラムのジェイ・ディー・ドゥーティ

1975年3月には、ニューヨークのCBGBクラブでで8週間にわたって、複数のバンドと共にコンサートを行います。

このコンサートをきっかけにパティ達にレコードデビューの話が来ます。

 

〈Hey Joe /Piss Factory〉のレコードは、様々な音楽関係者に送られます。そしてレコードはバンドの宣伝として役に立ちました。

 

CBGBでのコンサートが終わりに近づいた頃、トム・ヴァーラインの推薦で、ドラマーのジェイ・ディー・ドゥーティーが加わります。

 

様々なライブを経験して、パティのライブ・パフォーマンスのレベルが上がっていきます。その結果パティ達には、RCAとアリスタ・レコードの二つのレコード会社からレコードデビューの誘いがありました。

 

最終的にパティ達が選んだレコード会社は、クライブ・デイヴィスのアリスタ・レコードでした。
アリスタ・レコードを選んだ理由は、パティ達に “創作上での完ぺきな決定権” があったから。

 

ボブ・ディランとの出会い

アリスタでのレコードデビューが決まった後。6月26日にグリニッジ・ヴィレッジのアザーエンドでライブを行いますが、そのライブにはある大物が来ます。

 

それがパティにとってのロック・アイドル、ボブディランです。

 

ディランがこのライブを観に来た理由には2つの説があります

 

一つ目の説は、ディランが単純に「自分に影響を受けたと公言している詩人でありシンガーでもあるパティ」を見に来たという説。

二つ目の説は、アリスタ・レコードの社長、クライブ・デイビスを喜ばせるため。ディランが新人バンドのライブに来ることは珍しいので、パティ達のバンドの宣伝になります。

 

ライブが終わった後、ディランはパティ達の楽屋を訪れました。その時にパティは興奮のあまりに暴言を吐いてしまします。

 

 

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「詩なんてクソよ」

 

 【NYでの下積み時代】のパティを知るキーワード 

  • 偶然の運命の出会い、ロバート・メイプルソープ
  • チェルシー・ホテルで出会った、ボブ・ニューワース
  • アラン・レイニアとトム・ヴァーライン、2人のミュージシャンからの刺激
  • パティ、レ二ー、ソウルによるパティ・スミス・グループの原型
  • 自主制作レコード、〈Hey Joe/Piss factory〉

 

そして、パティはプロデューサーにヴェルヴェットのジョン・ケイルを向かえたアルバム『Horses』でデビューします・・・。

 

 

参考文献

さいごに、今回の記事を書くために参考にした文献はコチラです。

  • 「パティ・スミス 愛と創造の旅路」 ニック・ジョンストン 著 鳥井賀句 訳 筑摩書房 2000年 8月
  • 「レコード・コレクターズ‐特集パティ・スミス」1996年 8月号

 

この記事の続きは、「パンク女王 パティ・スミスの半生をキーワードで解説 Part-3 【ロックの名盤 Horses】」に書きました。この記事では、パティのデビューアルバムについて書いています。

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