パンク女王 パティ・スミスの生い立ちをキーワードで解説 Part-1 【パティの少女時代】

MUSIC

僕の大好きなミュージシャン、パティ・スミスが生まれてからNYに行くまでの【パティの少女時代】を記事にしました。

 

mae-nishi

今回の記事を読んで欲しいのは、こんな方です。

「パティ・スミスって、一体どんな人なんだろう?」

「パティ・スミスの曲が好きだから、彼女について詳しくなりたい!」

すでにパティ・スミス(以下パティ)について知っている方や、パティのアルバムを持っている方も、お時間があればお付き合いください。

 

はじめに

僕がパティのCDを初めて買ったのは、18歳の時。

当時の僕は都内にある専門学校の学生でした。パティの事は高校生の時から知っていましたが、実際に彼女の曲を聴いたことは無かったんですよね。

 

専門学校入学を機に、色々な音楽や映画に詳しくなりたかった僕。そんな中、パティのCDを近所のブックオフで見つけました。

僕は速攻で、そのCDをレジに持っていきます。

 

家に帰って、パティのCDを聞いた僕は、「こんなにも “魂を込めた声を出す人” がいるんだ!!」と感動しました。

 

ちなみに僕が初めて買ったパティのCDは『Radio Ethiopia』。このアルバムはいまでもよく聴いていて、特に2曲目の〈Ain’t It Strange〉は何度聴いてもテンションが上がります!

 

パティの ‘‘魂がこもった歌声” に感動した僕は、彼女のアルバムを買い漁りました。

 

『Easter』『Horses』『WAVE』『Peace And Noise』『Land』『Gung Ho』

 

アルバムが発売された順番なんて気にもかけずに、都内のブックオフを回ってパティのアルバムを探す日々。

 

上京したての僕は、ディスクユニオンの存在も知らなかったんです 笑

パティのCDはなかなかブックオフには取り扱っていなくて、探すのに苦労しました・・・。

 

と、僕の前置きはこのくらいにして、

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そろそろ本題に入っていきたいと思います。

 

幻覚、ロックンロール、モディリアニ、そしてランボーとの出会い

Patti Smith(パティ・スミス) – パトリシア・リー・スミスは、1946年12月30日にイリノイ州シカゴのサウスサイドに生まれました。

 

長女だった彼女にはその後、弟のトッドと妹のリンダ、キンバリーの3人の弟妹 (ていまい) が生まれます。

 

パティは一般的な労働者の家庭で育てられました。父親は読書家で、母親はパティにおとぎ話をよく聞かせていたそうです。

 

彼女は父親からは「好奇心の重要性」を、母親からは「空想すること」を学びました。

 

その後、パティが4歳の時に一家で、シカゴからフィラデルフィア北部のニューホール・ストリートへ引っ越します。

 
 

ロックンロールとの出会い

パティがロックン・ロールを初めて聴いたのは6歳の時。それは友達の家での出来事でした。
そこでパティは、リトル・リチャードの〈女はそれを我慢できない〉を聴きます。

 

ロックンロールの持つエネルギーに感動した彼女は、友達に「生き生きする感じ」と言いました。

 

「猩紅熱」による幻覚と母からのレコード

当時のパティは病気がちで、リウマチ熱、おたふく風邪、水ぼうそう、肺炎などにかかります。

 

そして、7歳の時には猩紅熱(しょうこうねつ)にかかりました。

 

 猩紅熱とは?

猩紅熱(しょうこうねつ、英: Scarlet fever)は、小児に多い発疹性伝染病。 明治年間に法定伝染病に指定され恐れられていた病気の一つだが、抗生物質が開発された後には、容易に治療が可能となった。

引用:『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』

7歳のパティは猩紅熱による絶え間ない幻覚に苦しみます。

 

しかしこの幻覚について、後に知り合うロバート・メイプルソープは、彼女に「幻覚は不幸な体験ではなく、贈り物だったんだよ」と教えました。

 

この病気での療養は悪いことばかりではなく、一つだけ良いこともありました。

それは母親からレコードを買ってもらえたこと。

 

パティは猩紅熱にかかっていた時に、〈蝶々夫人〉のレコードのボックス・セットを買ってもらいました。

 

猩紅熱による幻覚や母親からのおとぎ話の読み聞かせによって、パティは空想力に磨きをかけます。

そして、その空想力でたくさんの物語を作り、弟や妹に聞かせて彼らを楽しませました。

 

その後パティが8歳の時に、家族でニュージャージー州にあるピットマンに引っ越します。

 

フィラデルフィアでの都会生活から一転、ピットマンは田舎でした。ピットマンでの生活はパティにとっては退屈な日々。

 

パティにはこの当時、二つのコンプレックスがありました。それは「痩せすぎの身体」「斜視による眼帯」

特に眼帯は彼女に強いコンプレックスを抱かせました。その眼帯によって、学校の生徒からのいじめに合っていたからです。

 

しかし、月日が経ちハイスクールに進学したパティに、そのコンプレックスから解放される二つの出会いが起こります。

 

痩せすぎの身体へのコンプレックスからの解放

1960年、デプトフォード・ハイスクールで、ハイスクール時代を過ごしていた13歳のパティ。

 

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そんなパティに起こる、コンプレックスから解放される2つの出会い

 

その2つの出会いとは、ファッション誌『ヴォーグ』アメデオ・モディリアーニの絵画です。

 

ファッション誌『ヴォーグ』とアメデオ・モディリアーニの絵画

田舎で育ったパティにとって、『ヴォーグ』のようなファッション誌は、現実逃避の為の教科書でした。

パティは『ヴォーグ』に出てくる「奇抜なファッションの痩せた体のモデル達」を見て、自分の体型へのコンプレックスが ‘‘一つの個性” だと思うようになっていきます。

 

さらに痩せすぎの身体を気にしていたパティを、ハイスクールの美術教師が学校の図書館に連れて行きました。そしてある画家の絵画を見せたのです。

それがアメディオ・モディリアーニの絵画でした。

パティは彼の絵画のモデル達に自分を重ね合わせ、自身の体型を少しずつ認め始めます。

 

ロックアイドル、ローリング・ストーンズとボブ・ディラン

その頃のパティが聴いていた音楽はジャズなどの黒人音楽。

セロニアス・モンク、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、ジェームス・ブラウン、ニーナ・シモンなどなど。

 

しかし、そんなパティを熱狂させる ‘‘白人のミュージシャン” が現れます。

 

ローリング・ストーンズ

パティを熱狂させた白人のミュージシャンの一組目は、ローリング・ストーンズ。

日曜の夜に父親とテレビを見ている時に、パティはストーンズと出会います。

その時にストーンズが演奏していたのは〈タイム・イズ・オン・マイ・サイド〉でした。

 

この曲を聴いたパティは興奮のあまり、テレビに向かって「Yeah!!」と叫んだそうです。

その日から彼女はストーンズに夢中に。

 

そしてストーンズはパティにとってのアイドルになりました。

 

彼女はローリング・ストーンズから「ロックの反抗性」を吸収します。

 

 

ボブ・ディラン

この頃、パティはまた病気で療養をしていました。そんなパティに母親がレコードを買ってきてくれます。

 

それがボブ・ディランのアルバム『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』でした。

ディランの曲から「深い詩の感覚」を感じ取ったパティ。

 

彼女がディランの音楽を聴いた二十数年後。

1995年にディランとパティはステージで共演します。

 

頭脳的愛 ‐ ランボーとの出会い

そしてパティが16歳の時、 “彼女の創作に最も強い影響を与える人物” と出会います。

それがフランスの詩人のアルチュール・ランボー。

 

 アルチュール・ランボーとは?

Arthur Rimbaud(アルチュール・ランボー) 1854年10月20日 – 1891年11月10日

本名はジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー。フランスの詩人。
1854年10月20日フランスのシャルルヴィルに生まれる。
代表作は「賢者の手紙」「イリュミナシオン」「地獄の季節」。

 

彼女は工場のアルバイトの休憩中に本屋に入ります。

そこにはディランに似ている男が表紙の本がありました。その本こそがアルチュール・ランボーの詩集。

 

十代のパティはどんどんと彼の詩の世界に魅了されていきました。

そしてついには頭の中でランボーと恋人関係になります。彼女は後に、その一方的な恋の事を「頭脳的愛」と名付けました。

 

またランボーへの思いは、パティのクリエイションに大きな影響を与えることに。

彼女はデビューする前、その初期のポエトリーリーディングの名前に「ロックン・ランボー」と名づけています。

 

また、後に発表するアルバム『Horses』の〈Land〉や、『Radio Ethiopia』の〈Radio Ethiopia/Abyssinia〉はランボーに捧げた曲。

 

 

教員大学へ、そして妊娠。

パティはハイスクール時代は美術を学んでいました。

ハイスクール卒業後は、グラスボロー・ステート教員大学に入学。

大学では美術の教師を目指して勉強していました。しかし同級生の大半は中産階級の子供で、パティは大学の中では浮いていたそうです。

 

そんな彼女の大学生活は卒業間近に終わりました。

 

その理由は彼女が大学の教授と恋に落ちて妊娠したから。

若くして妊娠したパティは悩みました。この頃のアメリカでは妊娠中絶は違法行為だったからです。

 

悩んだパティは子供を出産して、養子に出すことを決意します。

 

退屈な工場での勤務

大学を中退して、子供を養子に出したパティはうば車の工場で働き始めます。

しかし、工場での仕事は単純作業ばかりでつまらなく、彼女はいつも辞めたいと考えるように。

 

その工場での経験をインスピレーションを基に書いた曲が・・・

 

mae-nishi

後に発表される〈Piss factory〉

 

工場で働いていた時も、ディランはパティにとってのアイドルでした。彼女はこの頃、映画『ドント・ルック・バック』を見て、ディランの歩き方を真似していたそうです。

 

工場での仕事に嫌気が差したパティは、ついに憧れのニューヨークへと旅立ちます。
工場で得た賃金16ドルと尊敬するアーティスト達の作品集を持って。

 

少女時代のパティを知るキーワード

  • 6歳の時に出会ったロックンロール
  • 猩紅熱(しょうこうねつ)による幻覚
  • 美術教師に教えてもらったモディリアーニの絵画
  • ロックアイドル、ローリング・ストーンズとボブ・ディラン
  • ディランに似ているから買ったアルチュール・ランボーの詩集

 

ニューヨークへ行く目的は、彼女が憧れていたアーティストの愛人になるため。
この頃のパティは知りませんでした。

 

まさか自分自身が、その憧れていたアーティストになるとは・・・。

 

 

参考文献

最後に、今回の記事を書くために参考にした文献はコチラです。

・「パティ・スミス 愛と創造の旅路」 ニック・ジョンストン 著 鳥井賀句 訳

筑摩書房 2000年 8月

・「レコード・コレクターズ‐特集パティ・スミス」1996年 8月号

 

この記事の続きは、「パンク女王 パティ・スミスの半生をキーワードで解説 Part-2 【NYでの下積み時代】」に書きました。

この記事では、デビューするまでのパティの半生について書いています。

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